弁護士会の取り組み

各種委員会の紹介

災害復興等支援委員会

阪神・淡路大震災に関する報告

1995年9月8日
神戸弁護士会事務局

1995年(平成7年)1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災に関しまして、地震発生直後から、日弁連や全国単位会の皆様から励しの電話や手紙、それに職員に対する義援金までいただきました。
皆様からの心温まるご支援に対し、ここに厚くお礼申し上げます。

なお、当会役員から『自由と正義』誌上に報告させていただいているとおりでありますが、事務局が体験した震災とその後の取り組みを中心に、ご報告申し上げます。

第一 はじめに

阪神・淡路大震災は、未曾有の被害をもたらし、亡くなった方が5500人以上、負傷者も4万人以上にのぼり、家屋の全半壊・焼失も20万棟以上といわれています。
神戸弁護士会会員の自宅や事務所も被害を受けました。
職員の自宅も被害を受けました。
また、地震直後から神戸弁護士会館は近隣被災者のための避難所となりました。

震災直後からテレビに映し出されていた被災地は、今なお傷痕が残っております。
会員事務所が多くある神戸駅周辺や神戸一の繁華街である三宮も同様です。

会館の被害状況、会員や職員の被害状況、職員の出勤態勢、緊急法律相談、避難所のこと等を、事務局の目で、事務局の立場で、一つ一つ思い起こしながら記録したものです。正確でない部分もあろうかと思いますが、概略次のとおりご報告申し上げます。

第二 被害状況等について

1.弁護士会館の被害状況

1) 会館は外観上ほとんど被害はない状況でした。
当日朝のテレビに映し出された高速道路の倒壊を見ていましたので、もしやと思いましたが、会館は外から見て全く被害はないという状態でした。
地震発生から2日目に会館の設計業者、3日目に施工業者の担当者が来られ、目視による点検の結果、その時も特に被害はないということでありました。

2) 建物内部は次のような状況でした。
[1] 1階役員室の書類収納棚が役員の机に覆い被さるように倒れ、机の脚が折れ、また収納棚のガラス戸がはずれガラスが散乱しておりました。
役員室内の応接セット以外使用不能の状態でした。
[2] 1階事務室の書類棚が傾き書類が散乱し、パソコンも落下しておりました。
館内放送設備のアンプが落下し、館内放送ができない状態でした。
また、大型金庫も移動しておりました。
[3] 1階書庫や倉庫の整理棚も倒れ、記録等が散乱し、当初は扉を開けることもできない状況でした。
[4] 2階の相談コーナーの間仕切用衝立が倒れ、ガラスが散乱しておりました。
[5] 3階図書室は書架が倒れたり、書籍が入ったまま棚が左右に移動したり、スチールの支柱が曲がったりして、大きな余震があれば危険な状態で、入室を禁じ貸出業務等を停止しました。
[6] 4階講堂の天井にある空調吹出口のカバーが落下していました。
また、はずれかかっているカバーもありましたが、落下する危険性はないとのことでありました。
なお、4階の全スペースは避難所として使用されていました。
[7] その他、水道・ガスが停止し、電話も一部不通になりました。

3) 内部の復旧については、書棚を起こしたりして徐々に整理を行いましたが、事務室がその機能を回復したのは1月23日ごろからであり、役員室の書棚を起こしたのが1月末で、仮の修復ができたのが2月3日ごろでありました。

4) 地震発生の1月17日より6月10日まで、会館は近隣被災者のための避難所となっておりました。
会館は神戸市の指定避難所ではありませんでしたが、「市民のための弁護士会」との立場から、役員のご決断で避難所として開放しました。

5) 避難所となっていました関係で、暫くの間、本格的な被害調査を行うことができませんでした。避難所としての機能を終えてから、建築業者による調査を行った結果、当初わからなかった外壁の亀裂や雨漏り箇所が見つかり、次のとおり応急の補修工事を行いました。
[1] 講堂空調吹出口のカバーの取付け。
カバーの取付けをしないと空調機を運転することができないということであり、7月に市民法律講座を講堂で開催する計画をしていましたので、急ぎ取付け工事を行いました。
[2] 4階講堂の蛍光灯の取替え。
6月10日まで避難所として24時間体制であり、夜間照度を落としても完全な消灯はしませんでした。
点検の結果、蛍光灯が切れていた箇所もあり、法律講座開催までに全管取り替えました。
[3] 館内放送設備(アンプ)の修理。
緊急時に全館放送ができないので、修理を急ぎました。
[4] 図書室の書架の補修。
会員から図書室の早期復旧を望む声が多く、書架に乗ったまま或いは散乱した書籍を梱包し、書架の補強工事を行い、書籍を戻す作業を行いました。
現在も司書による整理が続いています。

2.会員の事務所・自宅の被害状況

1) 建物が全壊したり、半壊した事務所は数多く、移転を余儀なくされた事務所は、会員数にして41名になります。
また、現在も補修中のビルがあります。

2) 自宅についても全壊・半壊のところが多く、建て替えのための一時避難を含め、移転を余儀なくされた会員は26名になり(事務所兼自宅も含む)、この中には事務所も全壊した会員5名も含まれております。

3) 神戸弁護士会では、平成6年度の安藤猪平次会長宅が全壊、平成7年度の田辺重徳会長宅が全焼という被害を受けられています。

3.事務局職員の被害状況

1) 神戸弁護士会職員、神戸弁護士協同組合職員や嘱託を含め、すべての職員のうち建物の損壊や負傷等被害に遭った職員は、次のとおりであります。

集合住宅の一部損壊 
集合住宅の外壁亀裂 
一部損壊 
一部損壊(隣家の2階が自宅に傾いた) 
一部損壊・補修可能(補修中、一時移転) 
一部損壊 
一部損壊・補修可能(補修中、一時移転) 
全壊・補修不可能(転居)肋軟骨骨折
半壊・補修不可能(一時避難所で生活) 
全壊(転居) 
一部損壊 

2) 建物の損壊等は免れても、建物内部では箪笥や食器棚が倒れたり、備品が落下し破損したところは大部分であります。
また、電話の機能停止、電気・水道・ガスの停止があり、復旧までにかなりの日数がかかった地域もあります。

第三 震災以降の出勤態勢について

1.職員の出勤態勢

1) 自宅建物の損壊で避難所や親戚宅に避難した職員、骨折した職員もおり、全員が出勤できる状況ではありませんでした。

2) 電話が不通になった地域もあり、しばらく連絡のとれない職員もいました。全員の無事が確認できたのは、1月20日前後でした。

3) 交通機関の断絶で、1月17日から22日までの間に常時出勤することができた職員は男子3名だけでした。8名の女子職員のうち3名と残り1名の男子職員は1月23日にはじめて出勤可能となりました。
この間、役員や応援にかけつけていただいた会員に、電話の応対等の事務を代行していただきました。

4) 出勤状況がほぼ正常に近い状態に回復したのは2月3日以降でした。正常といっても交通機関の復旧に時間がかかり、いずれの職員も交通機関が復旧するまでの間、かなりの距離を歩いたり、代替バスや鉄道を乗り継いで会館まで通いました。

5) 会館が近隣被災者の避難所となっており、24時間開けている状態でしたので、土曜・日曜の区別もなく、出勤できる職員間で出勤のローテーションを組みました。

6) 1月26日から電話による法律相談を毎日実施しておりましたので、土曜・日曜も含めた出勤体制は、電話相談を終えた2月末日まで続きました。

7) 男子職員は1月17日から交替で泊り込むことになりました。2月7日に警備会社の警備員が常駐するようになって、職員の宿直勤務は解除されました。

2.自宅待機

1) 交通機関の断絶で、会館に来るだけで4時間位は要し、帰りの時間を入れると実働時間がとれないという職員もいましたので、出勤できない職員は自宅待機という措置をとりました。

2) 役員・常議員選挙の告示も控えており、会館に来られない職員には住居に近い尼崎支部に出張して貰い、選挙事務や会員情報の収集にあたって貰いました。

3) 後述のとおり、会員の安否情報が十分入らず、万一のことも考え、自宅待機職員には新聞に掲載されている安否情報のチェックをお願いし、情報収集につとめて貰うことにしました。

第四 震災直後の会務について

1.役員の出勤態勢

1) 地震当日にいち早く会館に駆けつけられた副会長は、自宅が停電のため車庫の自動シャッターが作動せず、ご自身の車に乗って駆けつけることができませんでした。
そのため、ご近所の方の車に乗せて貰い、会館近辺まで送っていただいたと聞いております。
最初に出勤していただいた副会長には当日泊り込みをしていただきました。

2) 他の副会長は、自宅近くまで火の手が迫って危険な状態であったり、親戚の方が震災で亡くなったりして、すぐには駆けつけることができない状況の方ばかりでありましたが、それでも順次会館に駆けつけていただきました。

3) 当時の会長宅は全壊し、お嬢様が家の下敷きになっておられたということも後になって伺いました。
お嬢様が助け出されてからも、会長は近隣の方の救出作業に追われ、また、交通機関の途絶もあり、直ぐに会館に駆けつけることができず、会館への出勤は1月23日でした。

4) それまで、筆頭副会長が会長代理として指揮にあたられましたが、役員会の機能が回復したのが会長が出勤された1月23日で、次のことが協議されております。
[1] 会員の事務所の機能回復が当初の予測より遅れそうなので、裁判期 日の変更を求める期間をさらに延長するよう申入れる。
[2] 緊急会員集会を開催し、会員の被災状況を調査し、震災後の弁護士会活動を報告し、今後の対策について意見交換する。
[3] 事務局態勢を確立するために、事務室の整理をさらに進める。
[4] 会員の安否の確認をさらに徹底する。
[5] 日弁連、近弁連への報告に努め、協力依頼する。
[6] 会館での作業に協力可能な会員の名簿を作成し、宿直や昼間の活動に協力依頼する。
5) 日常の会務を停滞させないとの方針で、日直を決めて会館に詰められました。また、役員も交替で宿直にあたられました。

2.会務日誌

(2月途中までの会合等をメモしたもの)

1月17日・地震発生
・近隣被災者が避難(1階、2階、4階)
・役員及び職員泊り込み
18日・裁判期日等に関して、日弁連に最高裁との協議方依頼
・神戸市より本庁・区役所相談中止連絡
19日・裁判期日等に関して、全国高裁・地家裁宛依頼、各単位会への依頼と共に上記文書の伝達方依頼
20日・役員、常議員選挙の告示
・神戸市との相談業務に関する交渉
・日弁連宛、事務所・自宅の状況第1回報告
21日・神戸地検に被災事務所等の警備要請
22日 
23日・選挙確定(無投票当選)
・裁判期日等に関して、全国高裁・地家裁宛依頼、各文書を伝達方各単位会に依頼
24日 
25日・第1回緊急会員集会
26日・地震緊急法律相談(電話)開始
27日 
28日 
30日 
31日・日弁連会長・近弁連理事長ら被災状況視察、懇談
2月1日・地震緊急法律相談(面談)開始
・緊急集会の通知と2月委員会中止通知
・役員室復旧作業
2日 
3日・第2回緊急会員集会
4日・岡山弁護士会より被災状況視察
5日 
6日・神戸市へ警備に関する申し入れ
7日・警備会社による夜間警備実施
8日・水道復旧
9日 
10日・常議員会
11日・奈良弁護士会より被災状況視察
・名古屋弁護士会より被災状況視察
 

3.委員会活動等

1) 次期役員が確定してからは、6年度・7年度役員が合同役員会を持ち、対策にあたられました。

2) 常議員会は予定どおり開催しました。

3) 一部を除き各種委員会は2月中の開催分を休止することにしました。

4) 復旧・復興に向けての準備活動については、関連委員会から委員の出席を求めて協議しました。

第五 法律相談体制について

1.法律相談体制

1) 地震発生後は、被災地全体が大混乱に落ち入り、神戸市役所の相談コーナーのある2号館の4~5階部分が押しつぶされ、その他被害を受けた区役所もあり、常設の法律相談は事実上全て中断していました。

2) 1月24日、「震災非常時法律相談要領」を作成し、以下のとおり実施方針を定めました。 
[1] 電話による法律相談(ホットライン)
1月26日から開始。電話3本で土・日曜日も実施する。
相談時間は午前10時から午後5時までとして、相談者1人で2時間を担当する。(1日計12名)
[2] 面談による法律相談
2月1日から開始。土・日曜日は休みとする。
神戸弁護士会館2階相談室で午前11時から午後4時まで、3室~4室(1日6~8名)で実施し、相談料は無料とする。

3) 役員と応援にきていただいた会員とが手分けして、相談担当者の確保と担当日時の割当に奔走しました。
1月25日に開催された緊急会員集会で、法律相談を実施するに至った経過と実施計画とを説明して、会員の協力を呼びかけて相談担当者の確保に努めました。

4) 神戸だけでは担当弁護士を確保できないため、大阪弁護士会にも相談担当弁護士の派遣を依頼して協力を要請し、近弁連管内の各会や徳島弁護士会から多大な援助を受けました。
また、2月上旬には、岡山弁護士会からも協力の申出があって、日曜日毎の相談を応援していただきました。

5) 当初の計画では、面談による法律相談も弁護士会館だけで実施することにしていましたが、緊急会員集会の席上で、灘区、東灘区、芦屋・西宮市等に居住する会員から、弁護士会館まで出かける負担が大きく、各居住地区で住民の法律相談に応じたいとの希望があり、また、各地区にお住まいの市民の方々は交通機関の関係で弁護士会館まで出かけるのが困難だから、各地で法律相談を実施するのが合理的だとの意見が出されました。
そのような意見をふまえて、各地区でリーダーになる会員を求めて、そのリーダーに相談担当者の確保と相談記録の管理を依頼し、役員が各自治体と交渉して相談室を確保して、次のとおり各地で当分の間無料の緊急震災法律相談を実施することになりました。
[1]  灘地区 (灘区役所) 1月30日から
[2] 東灘地区 (東灘区役所)1月30日から
[3] 芦屋地区 (芦屋市役所)1月30日から
[4] 西宮地区 (西宮市役所)1月25日から
[5] 宝塚地区 (宝塚市役所)2月 1日から
[6] 尼崎地区 (尼崎市役所)1月30日から(尼崎支部担当)
[7] 明石地区 (明石市役所)1月25日から(明石支部担当)
[8] 姫路地区 (電話相談) 1月30日から(姫路支部担当)
[9] 神戸市産業振興センター 1月30日から
[10] 伊丹地区 (伊丹市役所)2月 1日から
[11] その他特別相談
a) 西宮地区夜間相談(19時~21時)
西宮市若竹公民館  2月21日、22日、23日
b) 神戸市長田区特別相談
長田ジョイプラザ  2月16日~22日(毎日)
c) 県立生活科学センター 2月 6日~18日(土・日を除く)

6) 弁護士会館における電話相談は2月末日で中止し、当会会館における面談相談担当者を1日3名から5名程に増員することにしました。

7) 3月には、委託を受けている自治体等の法律相談は、近隣弁護士会の協力も得てほぼ地震前の状態に回復しました。
担当者の増員や相談日の増設等をし、また、特別相談もあり震災相談のピークを迎えました。

8) 4月からは、常設法律相談活動を拡大充実させる方向で緊急震災法律相談を吸収合併して、統一的に運用する方向で、半年間の法律相談体制を確定しました。
そして、近弁連にも引き続き協力を要請し、近弁連から毎週計20名程度の弁護士を兵庫県内の法律相談所に派遣していただくことになりました。

2.ボランティア弁護士の派遣依頼について

1) ボランティア弁護士として法律相談をお願いした経緯は、震災直後、第二東京弁護士会の有志の先生方から当会の理事者に、「震災により、被災者の多くの法律相談が予想されることと、神戸弁護士会も被災していることから、ボランティアで法律相談をしましょうか。」ということから始まりました。
最初は、交通機関等いわゆるライフラインが寸断された状態で、来ていただくのが非常に困難でしたので、嬉しいお申し出でしたがお断りするしかありませんでした。

2) 徐々にライフラインが回復しましたが、当会まで来られるのは非常に困難であったにもかかわらず、3月16日から第二東京弁護士会の有志の先生方数名に毎日来ていただきました。

3) また、全国の先生方個人から「ボランティアで法律相談をしてあげたいが、どうしたらよいか。」というお申し出が多数ありました。
それまでにも、近弁連や近隣の弁護士会のご支援がありましたが、神戸の会員も多数被災しており、法律相談担当者の絶対数が不足していたことから、3月22日付で全国弁護士会にボランティア弁護士の派遣をお願いし、22単位会から合計289名の先生にご登録いただきました。

3.近弁連罹災都市臨時示談あっせん仲裁センター

1) 近弁連で示談あっせん仲裁センターの設置が決まり、4月17日に発足しました。

2) 当会では、緊急震災法律相談開設以降、法律相談の需要が多く、相談場所も既存の面談室で一杯になり、会員室の一部も使用しなければならない状態でした。このこともあり、1階ロビーに急遽簡易の間仕切りをした2室を確保し、仲裁センターとして使用しております。

4.法律援助センター

1) 法律扶助事業に対する法務省の援助が決まり、簡易な手続による被災者のための援助センターが設置されることになり、兵庫県内では当会会館と西宮市内に援助センターが設置されることになりました。

2) 当会では前述のとおり、相談場所の確保も十分できないため、駐車場の一部にいわゆるコンテナハウスにより援助センターの事務棟を設置しました。

第六 復興に向けての弁護士会の取り組み

1.取り組みの経過

1) 2月22日に関連委員会(人権、司法問題、総合法律センター、公害対策・環境保全)の委員による震災復興対策に関する意見交換会を行い、3月3日には、復興対策本部設立準備会を開催し、当面次の対策専門部会(プロジェクトチーム)を設置して活動を開始することになりました。
[1] 法制度等対策専門部会(借地・借家その他直面している種々の法律問題及び紛争処理制度を検討して、対策・提言等を図る。)
[2] 復興街づくり対策専門部会(復興のための街づくりの課題を検討し、対策・提言を図る。)

2) 2月28日には「阪神・淡路大震災被災地復旧・復興に関する緊急要 望書」を公表し、内閣総理大臣宛送付しました。

3) 4月には準備会を復興対策本部に改組し、引き続き調査・研究活動を行っております。

第七 緊急時の態勢について

1.会員・職員の安否情報の収集

1) 1月17日に会館に出勤して以来、会員からの安否情報或いは会員の安否に関する問い合わせ電話が鳴りつづけました。
男子職員3名のみ出勤という態勢でしたので、各情報については紙にメモにするのが精一杯の状況でした。
その後応援に駆けつけていただいた会員にも手伝っていただきました。 
各メモは日程表のホワイトボードやロッカー、壁に貼りつけ、問い合わせがあるたびにメモを見て回答しておりました。

2) メモだけではその量が非常に多くなるので、会員一覧表を貼り、会員の安否に関する情報を書き込むようにし、問い合わせに対応できる態勢を整えました。

3) 会員の安否、事務所の状況等の把握は、何をおいても第一にすべき事項でありますが、電話の不通等によりなかなか作業が進まなかったのが現状です。
外部から当会へ架かる電話回線のうち1本が不通となり、また、会員宅の電話も不通になったところも多く、後日お聞きしますと、双方からの連絡がとれない状況でありました。
特に、崖崩れが発生し避難勧告の出された地域には電話が全く通じず、安否不明の状態が続きました。

4) 緊急時に弁護士会へ連絡するという決まりやマニュアルはありませんでしたが、ほとんどの会員からご自身や他の会員の安否に関する連絡をいただきました。
会員集会の開催案内をファクシミリによる送付をしても、建物が危険な状態のため事務所に入れなかったという会員も多く、ファクシミリ文書を見ることができない状態のところがあったようです。
そのため、口コミで各会員に知らせる方法もとっていただき、1月25日の第1回集会には3階会議室に入りきれないほどの会員の出席がありました。
ここで各会員の事務所・自宅の状況について報告用紙を用意し、詳細に報告していただきました。

5) 2月3日に第2回会員集会を行いましたが、それまでに安否不明の会員は2名だけとなり、会員集会招集状にその旨記載した結果、会員から、お二人ともご無事でおられるとの情報を得ました。

6) 職員についても同様で、当方から電話しても通じず、後日確認したところでは、職員から会館に架電しても通じなかったということでした。

2.情報収集等の問題点・反省点

1) 地震直後から、会員からの安否連絡に限らず、日弁連や単位会への連絡、裁判所との交渉等、多くの情報が入り交じった状態でした。
その内容についてはすべてメモにして壁等に貼り付けました。
しかし、職員間、職員と応援していただいた会員との間に統一的取り決めはなく、また、ノートに書き込む作業はしておりませんでした。
当時の混乱状況からみて、自己弁護になるかも知れませんが、そのような余裕はありませんでした。
また、メモは大事にとっていました(とっていた積もりでした)が、いつの間にかどこかに紛れ、用済みになった段階で記録としてノートに貼り付ける等の方法により残すべきであったと反省しております。

2) ごく最近、当会も携帯電話を購入しました。大地震による混乱期にこれがなく、会の電話が不通になった状況から振り返れば、携帯電話があれば良かったと思っております。

3) 地震発生直後、被害状況がはっきりわからず、会員からの安否情報も「私は大丈夫である」といった表現が多く、怪我等はされていないのか、ご家族はどうなのか、自宅建物の状況はどうなのかといった統一的な問い合わせができていませんでした。
全壊・半壊といったものがどの程度のものをいうのかもはっきりしていませんでしたので、その情報の内容はまちまちでした。
これは、震災直後の各地の状況がどうなっているのか全くわからず、当初から出勤した職員の自宅は比較的というか、全くといっていいほど建物等に被害は受けていないため、想像を絶する状況がすぐに飲み込めなかったことも一因ではないかと思っております。

4) 事務所によっては、ビルが全壊しなくとも修理が可能なのか、修理不能なのか、はっきりしない状態が続いたところもあります。
被害届の提出を求めても、その点がはっきりしないため保留されたケースもありました。
各地からの問い合わせに対して、誤った情報を伝えないためにも統一的な表現方法を検討しておく必要があると思います。

5) 最近、名簿に自宅住所掲載を省略される会員が多く、これも会員への安否を問い合わせる時の障碍になりました。
当会では登録の際の原簿の写しを役員室の戸棚に保管しています。
前述のとおり役員室は書棚が倒れ、書棚に押し出された机やガラスの破片のため、原簿の写しを取り出すことができませんでした。
会員が届け出ている自宅の電話番号については、後日、日弁連に問い合わせて連絡をとりました。
電話番号等会員に関するデーターは日頃からまとめておき、資料は一か所でなく、分散させておいた方がいいように思います。

6) 最近、企業が「防災マニュアル」といったものを実戦型に変えたり、新たに作成するところが多いとの記事を見ます。
緊急時のマニュアルはあった方がいいでしょうが、今回でも弁護士会へ連絡するというアクションを起こしても、電話が不通になったりして連絡がとれませんでした。
いち早く会館に駆けつけた職員から連絡を受け、会長と連絡をとったうえで改めて連絡する、と言ったものの、実際にはその後電話が通じませんでした。
別の職員宅に連絡を入れ、この事情を説明して双方から電話を架け続ける方法をとりました。このように弁護士会から会員や職員、会員・職員から弁護士会という縦の連絡だけでなく、会員間、職員間、会員と職員間といった縦横のネットを作り、また、神戸だけでなく、大阪弁護士会をはじめとする近隣弁護士会との連絡等、多方面から情報を収集したり、情報を流す必要があるのではないかと思っております。

3.文書管理

1) 震災後、当会から会員宛への通知、裁判期日の問題等について日弁連をはじめ各単位会や裁判所宛発信しました依頼文書、それに対する回答文書等々かなり多くの情報が行き交いました。

2) ファクシミリの場合、受信した日付・時刻が打ち込まれており、どの文書が先か後かは印字を見ればわかりますが、感熱紙のファクシミリであったため、コピーをして保存しましたが、印字部分が切れて印刷されないこともありました。
この経験から、ファクシミリの印字とは別に受付日、時刻を書き込んでおれば良かったと痛感しております。

3) ファクシミリ文書の中には、役員個人宛のものもあり、ダイレクトに名宛人に渡したものもあります。
そのため、その間の経緯がわからなくなることもありました。個人個人の保管に委ねず、個人宛のものも必要なものはコピーを貰い、集中した管理をすべきであったと思っております。

4.その他

1) 地震が発生してから日を追って役員が会館に駆けつけられましたが、その間の指揮命令系統がいわば日替わりになっていたことがあります。
前の日の取り決めと違った指示が出たり、日毎の引継ぎが十分でなかったケースもありました。

2) 職員についても、宿直をした職員は翌朝帰宅したり、翌々日は休暇をとったりという措置をしましたので、休暇中の出来事が十分わからないまま事務をとることもありました。
1日々々、新しい情報が入ってきており、これも集中管理をすべきであったと思います。

3) 上記の集中管理については、後に引継ぎノートを作成して、当直役員が毎日必ず点検するようにしました。

4) 職員の出勤態勢が十分でない時期に、大阪弁護士会より職員を派遣し泊まりをさせる用意もある、とのお申し出を受けました。
大変有り難いお申し出でありましたが、当時、当会としても何をなすべきか、何ができるのか、はっきりしていなかったため、ご辞退申し上げた経緯がありますが、紙上をもって、改めてお礼を申し上げる次第です。

第八 避難所について

1.避難所になった経緯とその後の経過等について

1) 会館が近隣被災者のための避難所になりました。
地震発生の1月17日に近隣被災者から会館に避難させてほしいとの要請を受け、当日会館に駆けつけた役員の決断により会館の一部を開放しました。
当日は、会館周辺の方々に止まらず、各地から被災者が集まって来られ、ピーク時には600名を超える被災者で会館は一杯になりました。

2) 会館は4階建で、1階が役員室・事務局・応接室、2階が会議室・面談室・扶助協会及び協同組合事務室・会員室、3階が会議室・図書室、4階が講堂であります。

3) 被災者の方々は、1階ロビー・2階ロビー・4階に分散され、廊下や階段まで人で一杯になりました。
その後も出入りが激しく、常時400名前後の被災者が避難されていました。
会館前の駐車場は被災者の車で満杯になりました。ただ、会議室のある3階は当会の活動上必要なため開放できませんでした。

4) 1月17日より、役員・職員が交替で泊り込むことになりました。

5) 1月18日の午前3時頃、救援物資としてリンゴが届けられましたが、3~40個程度で、被災者数からみて配れる状況ではありませんでした。 
その直後、いわゆる「乾パン」が届きました。
大凡700個位入っておりましたので、全員に配付しました。

6) 当初は受水槽に残っていた水があり、手洗い等に利用していましたが、すぐに底をつき、給水車による給水を受けるようになりました。

7) 簡易トイレ(4台)と臨時電話(5台)が設置されました。

8) 1月26日から電話による緊急法律相談を開始するため、2階ロビーをあけていただくことをお願いし、1月24日に1階と4階に分散していただきました。

9) 1月24日、医療スタッフが常駐診療を開始し、2階面談室の一つをこのための部屋にあてました。

10) 神戸市と交渉の結果、2月7日から警備会社の警備員が夜間常駐することになり、男子職員の当直勤務は解消されました。
夜間だけでなく、土曜・日曜日は24時間体制で警備を依頼しました。

11) 2月8日に水道が復旧しました。3月に入ってガスも復旧しましたが安全のためガスは使用しないこととしました。

12) 4階の被災者が仮設住宅や親戚宅等順次他所へ移られたりして、4階に若干の余裕が出てきたこともあり、1階ロビーの被災者に4階へ移っていただきました。
これが3月6日で、このころも常時200名を超える被災者で一杯でした。

13) 最終的には、6月10日、近くの避難所である小学校(当時既に廃校になっていました)に最後の20名が移られ、避難所としての役目を終えました。
なお、避難所のリーダーから、会館を清掃して返したいとの お申し出があり、翌11日の日曜に、既に会館を出られていた方々も含め、約三十名が集まられ、1階・4階を清掃していただきました。

14) 特筆すべきは、当会だけでなく、神戸地方裁判所も交通裁判を行うスペースを避難所として開放されていました。

2.避難所と職員の関与

1) 職員が関与した部分は次のとおりであり、警備員が常駐してからはその一部を警備員に依頼しました。
[1] 自動ドアの開閉
当初は正面玄関の自動扉を24時間動かしたままにしていましたが、厳寒の時期でもあり、開閉するたびに冷気が入り込み、開閉時間を設定しました。
[2] 消灯
1階と4階に分散したころより、就寝時に蛍光灯の照度を落とすことにしました。
[3] エレベーターの始動・停止
避難場所が4階だけになった段階で、それまで止めていたエレベーターを動かすことにしました。被災者からの要望で夜9時には停止させ、朝6時に動かしました。
[4] 蛍光灯の取替え
24時間体制でありましたので、蛍光灯の切れる箇所が多く発生しました。

第九 その他雑感

1.多くの皆様からご支援をいただきました

1) 全国各会から震災直後から励ましの電話・手紙・ファクシミリをいただきました。
また、職員に対しても義援金を送っていただいております。
改めてお礼申し上げます。

2) 大阪のある会員は、1月29日に大きなリュックを背負い、交通機関が寸断された西宮から神戸市内を延々歩かれ、軍手、マスク、使い捨てカイロ、衛生用品等を入れて持参していただき、そのうえ法律相談まで担当していただき、先生からいただいたご親切は、名刺とともに記録に止めさせていただいております。

3) 前述のとおり、大阪弁護士会からは早い時期から、職員の派遣についてお申し出をいただきました。
また、法律相談担当者派遣につきましては、まことにすばやい対応をしていただきました。

4) 全国各地からボランティアの方々が神戸等に来られました。
会館の避難所で活動したいといって、寝袋を担いで、長野から来られた女性もいました。
また、全国各地の警察官、消防隊員の方々が応援に駆けつけていただきました。
他府県ナンバーの消防自動車やパトロールカーを見た時は感激で胸が一杯でした。
余談ですが、神戸市内で警視庁のパトロールカーを見たのは初めてです。

2.会員先生方の力

1) 会内部を見ましても、震災直後から多くの会員が会館に駆けつけられております。
交通機関が寸断されている中、リュックサック一杯におにぎり等を持って来ていただいたり、ご自宅の電子レンジを持ち込んで、家で作られた味噌汁を持参し会館で温めて我々に提供していただいたり、店が開いていない時期に本当に助かりました。

2) しばらくの間、水道・ガスが止まったままでした。
職員の家も同様です。
これらに被害のなかった会員、或いは復旧した会員から、お風呂に入りに来るようお誘いがあり、利用させていただきました。

3) 1月26日から電話、2月1日から面談による緊急法律相談をはじめることになりましたが、相談担当会員の確保が大変な作業でした。事務所も被害を受けられているのに、1日中会館に張りついて、大きな表を作成してどの日が決まっていないか一目でわかるようにし、会員事務所に電話を架け続け、担当者の割り当てをしていただいた会員がおられます。
また、それを快く引き受けられた会員も多くおられます。

4) こうした力が今日の復興対策へ力を注がれている原点と感じております。
会員の機動力に今更ながら敬服する次第です。

3.終わりに

1) 5500人を超える死亡者を出した大震災を経験し、このような報告をさせていただけるのも、「生きていた」からであり、会館が無事建っていたからだと思います。友人等から連絡をいただくたびに、知人に会うたびに、「おお生きとったか」というのが挨拶になっていました。

2) 万一、会館が倒壊していたら、どうなっていたのか。思いたくもありませんし、全く想像もつきませんが、なにもかも今と違っていることは確かだと思います。

3) 雲仙普賢岳の噴火、奥尻島、三陸沖地震等々、いろいろな天災は新聞やテレビで知っておりますが、今までは遠くの出来事ということしかとらえておりませんでした。
今回の地震に遭遇して、本当に経験しないとわからないものだと痛感しました。
また、テレビや写真集だけでなく、倒壊現場や焼失した地域を歩いてみないとわからないところがありました。
神戸の被災状況をテレビで見られた方が現地を来られた時も、同じような感想を漏らされていました。

4) また、早い時期から全国各地から救援の手が差しのべられことも、驚きと喜びと一杯になりました。
皆様からのご援助に対して心からお礼申し上げます。有り難うございました。